「ストレス」といえば、おそらくは多くの人が避けたいものかもしれない。ストレスという言葉から連想させるものといえば、「学校の課題」や「職場でのノルマ」、もしくは「家庭でのいざこざ」など、およそ良い印象とはかけ離れたものであるというのが大勢の認識といえる。
もっとも、ある程度のストレスであれば、エネルギーや集中力が必要な場面で一定の効果を発揮する。たとえばスポーツでは、ある程度の緊張感(ストレス)があるほうが能力が発揮されやすい。勝負ごとに関しては、全くストレスのない状態では実力を最大限に発揮するのは困難といえる。
ストレスは、その程度によって良い面も悪い面もあるが、ここでは主にストレスの悪い面についてみていく。とりわけ、ストレスが記憶力にどのような影響を与えるかという点である。
【目次】
1.ストレスと脳科学
2.ストレスと遺伝学
3.ストレスとの向き合い方
1.ストレスと脳科学
上述したように、人が健康的に生きていく上で、ある程度のストレスは必要である。しかし、過度のストレス状態が長時間にわたって継続し、寝ても覚めても強いストレスにさらされ続けると、脳には負の変化が生じるようになる。この負の変化は、脳の大きさや構造、機能から遺伝子レベルに至るまで、幅広く及ぶ。
ストレスは、脳内の視床下部、下垂体、副腎皮質(HPA)系で生じる。腎臓と脳の内分泌系で一連のやりとりが生じ、ストレスに対する身体の反応が制御される。脳がストレスの多い状況を感知すると副腎皮質系は活性化し、コルチゾールというホルモンが分泌されて身体は「いざ」というときに備える。これは、生存競争の中で身に付けた防衛本能の一種である。上述のスポーツでも触れたように、ヒトにとってはある程度の“戦闘態勢”は、生きていく上で不可欠である。
ただし、こうしたストレス状態が長時間にわたり、コルチゾール値の高い状態が続くと脳は疲弊する。コルチゾール値が高まると、学習や記憶に関わる海馬という部位の働きが鈍くなる。すなわち、慢性ストレスによって学習や記憶が困難になる。
しばしば、テレビドラマのワンシーンで上司が部下を怒鳴りつけ、「同じことを何度言えば分かるんだ」と叫ぶシーンがある。怒鳴りつけられることで部下はストレスを感じ、記憶力が低下するためにますます同じ失敗をするようになる。すなわち、「同じことを何度言えば分かるんだ」は、厳密にいえば“同じことを何度も言う(ストレスを与える)から分からない(記憶できない)”が正解に近い。研究によると、ストレスが多い生活を過ごすと、40代で脳が委縮し、物忘れが激しくなることも分かっている。
ストレス時に分泌されるコルチゾールには、脳を萎縮させる危険性がある。過剰なコルチゾールの分泌は、ニューロン間のシナプス結合の減少や、前頭前野の萎縮を引き起こす。前頭前野は集中や決断、社会的交流を司る部位であることから、ストレスは記憶力の低下だけでなく、集中力や決断力の低下も引き起こす。
過剰なコルチゾールの分泌が生じさせる悪影響は、記憶力や集中力、決断力の低下だけではない。過剰なコルチゾールは海馬で新しい脳細胞が作られるのを妨げるため、うつなどの精神疾患の要因となり、アルツハイマー病を引き起こすこともある。
またストレスによって影響を受ける海馬には副腎皮質系の働きを抑制する役目もあるため、海馬の動きが弱まることでストレスを制御する力も弱まる。つまり、「ストレスを受ける → 海馬の働きが弱まる → ストレスを制御する力が弱まる → さらにストレスを受ける」という悪循環が引き起こされる。
2.ストレスと遺伝学
研究によれば、ストレスの影響は脳のDNAにも及ぶ可能性があることが分かっている。マウスを用いた実験で、母親に育てられたマウスと、母親に育てられなかったマウスのストレス体制を測った。その結果、母親に育てられたマウスのほうがストレス耐性があった。これは、母親に育てられた子マウスのほうが脳内のコルチゾール受容体が多いためである。コルチゾール受容体が多ければ多いほど、それだけ多くのコルチゾールが受容され、ストレス反応を弱める働きをする。この実験では、子マウスのストレス耐性が、生涯にわたってストレスに対する反応を決定づけることも分かった。
母親に育てられたマウスがストレスに強くなった一方で、母親に育てられなかったマウスはストレスに弱くなった。こうした結果は、後天的に生じたものと考えられる。すなわち、先天的(生まれつきの性質)ではなく、生後の環境によって得た性質である。
これらの実験から、成長過程で身を置く環境がストレス耐性の有無を決定づけることが分かる。すなわち、同じ遺伝子を持ったマウスでも、母親を入れ替えて育てられれば反対の結果になることを意味している。
また、こうして生じたストレスへの耐性は、その後、何世代にもわたって子孫に受け継がれることが分かっている。言い換えれば、遺伝によって決まっていない後天的なストレス耐性が、環境によって形成され、その後は遺伝子に組み込まれ、子や孫に引き継がれていく。
なお、遺伝するのは負の性質だけではない。京都大学がおこなった実験によると、線虫の親世代にストレスを与えることで生じたストレス耐性の強化や寿命の延長が、その子孫に受け継がれることが分かっている。
従来の生物学では後天的に獲得した形質は遺伝しないと考えられていたが、近年では良い面にせよ悪い面にせよ、その考えが否定される研究結果が報告されつつある。
3.ストレスとの向き合い方
ストレスによって分泌されたコルチゾールを抑える方法はいくつかある。代表的なのは、運動や瞑想である。(詳細:「瞑想(マインドフルネス)の脳科学」)
他にも、「ハメを外す」という行動がストレスを解消させ、記憶力や注意力を維持することに役立つといわれている。
これまでみてきたように、過度なストレスは日々の生活を蝕むだけでなく、子孫にも悪影響をもたらす危険性がある。健全な生活を送る上で適度なストレスは必要だが、そのストレスが過剰なものにならないよう、常にセルフケアを意識することが重要である。
・【参考文献・参考サイト】
・WIRED「Poverty Goes Straight to the Brain」
・TED-Ed「How stress affects your brain – Madhumita Murgia」
・PRESIDENT Online「ハメを外せない人は記憶力と集中力が低くなる」
・CNN.co.jp「ストレスが物忘れや脳萎縮につながる可能性、40代でも影響 米研究」
・TED-Ed「ストレスと記憶の驚きの関係」
・東邦大学「ストレスと脳」