コラム

「ヒトの脳は10%しか使われていない」という説の真偽

「ヒトの脳は10%しか使われていない」という話は、脳科学に興味がある者だけでなく、興味のない者でも一度は聞いたことがあるかもしれない。

 神経科学者であり、ジョンズ・ホプキンス大学の医学部教授でもあるデイヴィッド・J・リンデンは、自身の著書で次のように述べている。

 「脳の研究をしていて得なのは、ほんの時々だが、まるで読心術を使えるかのように見せられることだ。たとえばカクテルパーティの時。白ワインのグラスを手に立っていると、ホストが他の客に私を紹介してくれる。そういう時は、どうしても職業について触れることになる。「こちらはデイヴィッド。脳の研究者ですよ」という具合に。それを聞いて、ほとんどの人は賢明にも、すぐに背を向けてウィスキーや氷を探しに行ってしまう。だが、その場に留まる人もいて、半数くらいは、しばらく無言で天井を見つめ、やがて眉を上げて話し始めようとする。そこですかさず私はこう言うのだ。「人間が脳の10パーセントしか使っていないというのは本当ですか、と尋ねようとしたでしょう」―――相手は目を丸くしてうなずく。これで私はもう読心術の使い手だ。
 10パーセントの話(この話が事実無根である、ということは言っておかなくてはならない)が済んでも、いろいろと質問されることがあって、脳に興味を持っている人が多いのだな、とわかる。」
【引用:「脳はいいかげんにできている」(河出書房新社)】




 原著は2007年に上梓されたものだが、2020年の現在でもなお、多くの人がこの説を信じている。調査によると、科学の教師でも7割近くがこの説を信じているといわれている。

いつからこの説が信じられていたか

 それでは、この「10%説」はいつ、どのようにして誕生したのだろうか。1890年代、「アメリカの心理学の父」とも呼ばれるウィリアム・ジェームズは「我々は、頭脳の持つ可能性を十分に発揮できていない。」と述べた。この言葉は決して、常に脳の大半が使われていないことを意味した言葉ではなかったが、この言葉が発端となり、「ヒトの脳は10%しか使われていない」という誤解につながったと考えられている。そしてこの誤解は、一般大衆のみならず、科学者にも浸透していた。

 ヒトが持つ大きな前頭葉や頭頂葉の役割は、長い脳科学の歴史の中でもとりわけ不明であった。脳科学の研究の歴史の中で1900年代といえば、ようやく視覚野の存在が判明しつつあった時代である。(関連記事:「紀元前4世紀から21世紀まで、脳研究2500年の歴史を辿る」
 前頭葉や頭頂葉が含まれる大脳皮質の区分がなされ、大脳地図が発明されたのは1909年になってからのことである。その後、前頭葉や頭頂葉の役割が長らく不明瞭だったのは、この部位が損傷しても運動や感覚に欠陥が生じなかったためである。今でこそ、脳の各部位にはそれぞれの役割があることが広く知られているが、当時の研究水準では、運動や感覚のように外部に現れる行動として目に見えるもの以外の存在(機能)を把握するのは困難であった。そのため、「損傷しても変化はない=その部分は使用されていない」と誤認されるようになった。

 数十年もの間、これらの部位は何もしないことから「沈黙野」と呼ばれ、その機能は知られないままだった。この部位が脳の各部位の情報を統合させる役割を果たしていることが知られるには多くの歳月を必要とした。現在では、前頭葉や頭頂葉は抽象的な推論や計画、判断、さらには適応能力を備えていることが分かっている。(関連記事:「脳の基本構造ー各部位の名称と機能について―」

最新の研究では何が分かっているか

 最新の研究によれば、ヒトの1日の活動を通じてみると脳は全体的に使用されていることが分かっている。また、特定の活動をしているときだけでなく、特にこれといった活動や考えごとをしていないときでも、脳の神経細胞は活発に活動していることが分かっている。(関連記事:「脳の疲れの原因は“デフォルト・モード・ネットワーク”『α波がリラックスに最適』を覆す瞑想(マインドフルネス)の脳科学」

 最新の研究では、もはや「ヒトの脳は10%しか使われていない」ことが誤認であることが明白であるが、それでもなお、巷にはこの説が広く浸透している。その理由には、たとえば学校教育で正しい脳科学に関する授業がおこなわれていないという理由であったり、「残る90%を活用することで、ヒトのまだ見ぬ才能や能力が開花するに違いない」という希望に想いを馳せたいからという理由があるのかもしれない。

 ヒトの脳が10%しか使われていないという説が否定されたからといって、脳の可能性そのものが否定されたわけではない。脳の研究が進むにつれ、その可塑性も見直されつつある。日常生活の中で脳が100%近く稼働していたとしても、脳が持つ可能性は、まだまだ大きいものなのかもしれない。

関連書籍

◆参考文献
脳はいいかげんにできている その場しのぎの進化が生んだ人間らしさ (河出文庫)
大人のための図鑑 脳と心のしくみ

関連記事

  1. 不倫と浮気の脳科学―男女の心理・思考メカニズムについて―
  2. コミュ障(コミュニケーション障害)は病気?それとも性格?
  3. 笑顔が与える心理的効果とは?
    「美人」を生み出す表情の脳科…
  4. 意識とは何か ―脳科学最大の謎に迫る―
  5. 【睡眠と夢の脳科学】眠りは心と脳にどのような影響を与えるか。
  6. DV(ドメスティック・バイオレンス)のメカニズム【脳科学】
  7. バイリンガルの脳は特別か-多言語使用の脳科学-
  8. 新型コロナウイルスは脳にどのような影響を与えるか
PAGE TOP