コラム

なぜヒトは「言った」「言わない」でモメるのか。【過誤記憶の脳科学】

 ヒトの記憶とは、往々にして曖昧なものである。多くの人にとって、「言った」「言わない」の議論をした経験は、自分事かもしれない。多くの場合に議論は水掛け論で終わるが、その度に相手の記憶力の無さに驚き、くやしい思いをしたこともあったかもしれない。

【目次】
1.記憶はどこまで信用できるのか
2.言葉が脳の記憶を書き換える
3.新たに脳に書き込まれる記憶
4.社会問題になる過誤記憶
5.記憶力が有りすぎると、どうなるか
6.記憶の齟齬があるのが当たり前だからこそ

1.記憶はどこまで信用できるのか

 古代ギリシャの哲学者であるプラトンは、「記憶の領域では、その人の過去が完全に保存されている」として、記憶を絶対的なものと考えた。

 それから2400年ほどが経った現在、これを真っ向から否定する意見がある。“20世紀で最も一般人に知られた心理学者”の異名を持つといわれるアメリカの認知心理学者であるエリザベス・F・ロフタスは、「記憶は川のように流れているもので、書き換えが可能で、全く信頼に値しないものだ」と述べる。ロフタスは、20世紀で最も影響力のある100人の心理学研究者のひとりに選ばれたこともある、女性では最高位の実力者といわれている。

2.言葉が脳の記憶を書き換える

 ロフタスは、ヒトの記憶が曖昧なものであることを確かめるために、次の実験を行った。

 実験では、初めに被験者に自動車事故の映像を見せた。映像を見たグループのひとつに「車が激突した(smashed)とき、どのくらいのスピードで走っていたか?」と尋ね、もうひとつのグループには「車が当たった(hit)とき、どのくらいのスピードで走っていたか?」と尋ねた。
 その結果、「激突(smashed)」と尋ねられたグループの回答は平均で41マイル/時(65.9km/h)だったが、「当たった(hit)」と尋ねられたグループの回答は平均で平均で34マイル/時(54.7km/h)だった。
 この実験では、同一の映像を見たにもかかわらず、質問を変えるだけでそれぞれのグループの記憶が異なるものに変化する結果となった。

 また、一週間後に同じ被験者を集め、映像を見せずに「ガラスが割れるのを見たか?」と質問すると、「車が当たったとき」という表現で質問されたグループは、14%が「割れるのを見た」と回答した。これに対して、「車が激突したとき」と質問されたグループでは、32%が「割れるのを見た」と答えた。なお、被験者に見せた映像ではガラスは1枚も割れていなかった。これは、「激突した」という表現が、事故の記憶をより凄惨なイメージに変えたことを意味する。

3.新たに脳に書き込まれる記憶

 ロフタスは、記憶が書き換えられうることを示す他の実験も行なっている。
 この実験では、参加者に対して幼少期に経験した4つの出来事を提示した。提示した出来事の内、3つは本当にあった出来事で、1つは偽物の出来事である。偽物の出来事の内容は、「5歳の時にショッピングモールで長時間迷子になり、高齢の女性に助けられた」というものである。

 参加者は、それらの出来事について覚えている内容を書き出すように指示された。また、覚えていなければ「覚えていない」と書くようにも指示された。  この段階で、経験していないはずの偽物の出来事を「覚えている」と回答した参加者は、全体の25%を占めた。
 その後、1~2週間の間隔を空け、4つの出来事の詳細と、どれほど覚えているかを二度にわたって調査した結果、偽物の記憶は思い出す回数が増えるほど、記憶の鮮明さが増していった。

 この研究結果は、人は経験していない出来事を「経験した」と記憶していることがあり、なおかつ、経験していない記憶を思い出す回数が多いほど、その記憶(過誤記憶)が鮮明になっていくことを示している。

4.社会問題になる過誤記憶

 過誤記憶は、特に人生を大きく変えることもある。

 レストランの支配人をしていたスティーブ・タイタスは、ある日、レイプ犯と間違われ逮捕された。警察はタイタスの写真を撮り、他の人の写真と一緒に被害者の女性に見せた。すると被害者はタイタスの写真を指差し、「この人が一番近い」と言った。それを聞いた警察と検察は、逮捕・起訴に踏み切った。

 その後の裁判で、被害者の女性は裁判で「この人で絶対に間違いない」と証言し、タイタスは有罪となった。

 後に真犯人が見つかりタイタスは釈放されたが、彼の人生は大きく変わった。仕事を失い、婚約者も失った。彼の怒りは収まらず、寝ても覚めてもこのことばかりを考えるようになった。その怒りから警察を相手取って裁判を起こした。
 裁判が始まる数日前の朝、目覚めると身もよじれるほど激痛に襲われ、ストレス性の心臓発作によって35歳の若さで死亡した。過誤記憶が人生を大きく変えた事例である。

 アメリカでは、目撃証人の「誤った記憶」によって有罪になる人が後を絶たない。調査によると、無実の罪に問われた300名の内、75%が目撃証人の「誤った記憶」が原因だった。

5.記憶力が有りすぎると、どうなるか

 ヒトの記憶は曖昧ゆえに、後付けの情報によって過去や現在の記憶が書き換えられることがしばしばある。こうしたケースを見聞きすると、多くの人がより強固な記憶力を求めるかもしれない。しかし、強すぎる記憶力は、日常生活にマイナスの影響を与えることもある。

 旧ソ連の神経心理学者であるアレクサンドル・ロマノヴィッチ・ルリヤの報告によると、かつて、極めて優れた記憶力を持ったシィーと呼ばれる男性がいた。シィーは、その記憶力ゆえに、記憶できる量に際限がなかったといわれている。彼は70以上の単語や数字を一度みただけで正しい順序ですべて記憶できただけでなく、16年が経ってもその情報を正確に思い出すことができた。
 シィーには、覚えた情報を忘れられずに苦しむ一面もあったといわれている。覚えたことを忘れるために、紙に書き出して丸めてゴミ箱に捨てたり燃やしたりしたが、それでも情報を忘れられず、苦しんでいた。

 一般的に、ヒトは複数の情報の特徴をまとめたり、抽象化したりすることができる。このような抽象化やカテゴリー化は、ヒトの記憶が曖昧ゆえに可能な能力である。  この点、シィーは情報が極度に鮮明に記憶されるため、複数の情報をまとめたり、共通する情報を取り出したりすることができなかったといわれている。会話中には事柄の細部や副次的な情報の追憶にとらわれ、その内容は果てしないほど逸脱したという。さらに、脳内で形成される記憶のイメージが鮮明すぎるために空想と現実の区別がつかず、脳内の鮮明な像が現実と一致しないために必要な行動をとれないこともあった。
(参考:PRESIDENT Online「なぜ人は都合よく“記憶”を書き換えるのか」)

6.記憶の齟齬があるのが当たり前だからこそ

 これまでに見てきたように、ヒトの記憶は曖昧で、頻繁に改ざんされる。いうなれば、「言った」「言わない」の議論は、人間関係の中で往々にして生じるものである。それゆえ、不毛な議論を避けるのであれば、ヒトの記憶の性質を押さえた上で、その性質と向き合っていくことが必要といえる。

【参考文献・参考サイト】
・理化学研究所「記憶の曖昧さに光をあてる-誤りの記憶を形成できることを、光と遺伝子操作を使って証明-」
・PRESIDENT Online「なぜ人は都合よく“記憶”を書き換えるのか」
・TED「How reliable is your memory? | Elizabeth Loftus」
・BuzzFeedNews「7割の被験者が架空の犯罪を自白…有名な実験結果に科学者が「待った」」
・金沢学院大学国際文化学科「作り替えられていく記憶」
・つながる脳科学(講談社)
・残念な職場: 53の研究が明かすヤバい真実(PHP新書)
・放射線カウンセリングステップONE(日本放射線カウンセリング学会)

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