コラム

「暴力の人類史」にみる狂気・悪意・犯罪の脳科学・心理学

 この地球上に暴力が誕生したのはいつだろうか。生命が誕生した38億年前か、それとも悪意を生み出す器官である脳が誕生した5億年前か。もしくは、狂気に駆り立てられうるヒトが誕生した700万年前か。

 ヒトの狂気や悪意は、洋の東西を問わずさまざまな時代や国や地域、組織で散見されてきた。窃盗・傷害・暴行・殺人などの刑法犯に限らず、より身近なものであればセクハラやパワハラ・モラハラといったハラスメントや、内戦や国家間の戦争に至る大規模な、しかしそれゆえ遠い世界の出来事のような事件をも、狂気や悪意は引き起こす。

 テレビや新聞では、毎日のように大小を問わず事件や争いが報道される。それを観る人々は、「物騒な世の中だ」と言うかもしれない。しかし、ハーバード大学心理学教授であり認知科学者・進化心理学者でもあるスティーブン・ピンカーは、「長い年月の間に人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれな」と、自身の著書で主張している。

 スティーブン・ピンカーの著書「暴力の人類史」では、先史時代から現代までの人類の歴史を通観しながら、神経生物学や脳科学など最新知見を総動員し、暴力をめぐる人間の本性を精緻に分析している。

「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー)

 本書はタイトル通り、暴力の人類史を知る上での良書となる。しかし、上下巻で1,200ページを超え、やや抽象的で叙述的な表現が多い。たとえば、「ヒトの攻撃性を生み出す内なる「悪魔」と、暴力を回避する内なる「天使」」など、比喩を用いて説明する点が多くみられる。そのため、初学者は通読に手を焼くかもしれない。

 そこで本稿では、初学者(未読者)が「暴力の人類史」に興味をいだけるよう、各章のポイントを分かりやすく要約していく。

「暴力の人類史」目次
【上巻】
第1章 異国
第2章 平和化のプロセス
第3章 文明化のプロセス
第4章 人道主義革命
第5章 長い平和
第6章 新しい平和

【下巻】
第7章 権利革命
第8章 内なる悪魔
第9章 善なる天使
第10章 天使の翼に乗って

1.「異国」ともいえる過去

 第1章「異国」では、数千年前~数十年前の過去を「異国」とみなし、暴力に対する概念が現在の社会通念と大きく異なる点に触れている。人類の歴史が700万年という長期にわたっているにもかかわらず、数千年前の人類は現在とは比較にならないほど残虐だった。ヒトをあやめることが常態化していただけでなく、その方法も現代社会ではおよそ見られないほどに残虐なものである。

1-1.聖書にみる残虐さ

 ヘブライ語聖書(旧約聖書)は、紀元前1000年代の後半を舞台にしながらも、書かれたのはそれから500年以上後のことである。聖書は現在でも何十億人もの人々によって道徳的価値の源泉として崇められているが、その内容は暴力を称賛する長い長い物語である。

 物語に登場する神は天と地を創造し、土の塵で最初の人「アダム」をつくった。そして神はアダムのあばら骨の一部を抜いて女「エヴァ」をつくる。エヴァはアダムとの子「カイン」と「アベル」を産むが、カインはアベルを襲って命を奪う。これが、残虐な物語の始まりである。
 聖書に登場する次の主要人物は、「アブラハム」である。アブラハムには「ロト」という甥がいて、ロトはソドムという街で暮らす。ソドムでは男色やそれに匹敵する罪が横行していたことから、神は天から火を降らせ、老若男女すべての住民の命を奪う。
 アブラハムの孫である「ヤコブ」の娘「ディナ」は、誘拐されて犯される。その後、犯人の親族がディナの兄を訪れ、ディナを嫁にもらいたいと申し出る。ディナの兄は、犯人の住む町の男全員が割礼(※陰茎の包皮を切りとる風習・儀式)を受ければディナを妻として与えると提案する。そして、町の男たちが割礼を受けて傷口から血を流して苦しんでいる間に、ディナの兄たちは町に侵入して略奪、破壊し、男たちをあやめて女と子どもを連れ去る。
 ディナの父であるヤコブは、子孫を連れてエジプトに移住する。だがエジプト王はイスラエル人が増えすぎたために彼らを奴隷にして酷使し、産まれた子どもが男だった場合に一人残らずあやめるよう命令する。
 その後も、人々の命は奪われ続ける。神はエジプトで最初に産まれた子どもの命を奪い、エジプト軍を紅海に沈める。また、イスラエル人に動物の捧げものを命じるが彼らが香の捧げ方を誤ったために焼き払って命を奪う。さらに、イスラエル人にミディアン人の命を奪うことを命じ、町を焼き払わせた。神はさらに他の敵(ヘト人、アモリ人、カナン人、ヘリジ人、ヒビ人、エブス人)を名指しし、徹底的に命を奪うよう命じる……

 現代人からみると、聖書で描かれる世界の残虐さには目を見張るものがある。聖書学者のレイムンド・シュワガーによれば、旧約聖書には他者への攻撃や命を奪うことに関して描かれている箇所が600ほどあり、その犠牲者は120万人に及ぶという。(ノアの大洪水の犠牲者を足せば2000万人が上乗せされる。)
 なお、旧約聖書に描かれた内容はほとんどが実際にあった出来事ではないという点には注意が必要である。とはいえ、紀元前500年前後の中近東の人々の生活や価値観、文化や社会通念を知る上で聖書は一定の役割を果たしている。当時の人々は奴隷制や残虐な刑罰、女性に対する性暴力に問題があるとは考えていなかった。彼らにとっては慣習や権威への盲目的な追従こそが重要であり、それに比べれば人の命に価値はなかった。

1-2.古代ローマにみる残虐さ

 紀元前27年頃に誕生したローマでも、現代と比べると遥かに残虐な文化が浸透していた。ローマ帝国最大のシンボルであるコロッセオがその最たる例である。5万人ほどの観客が押し寄せる中、柱に括りつけられた女性が犯され、猛獣に食いちぎられる見世物が盛んだった。また、囚人の軍団どうしが互いに命の獲り合いをさせられ、奴隷たちは神話に登場する身体切断や命を落とす物語を演じさせられる。たとえば、岩に鎖でつながれた男にワシが襲いかかって内臓を引っ張り出すなどである。こうした苦しみの中で命を落とした者は50万人にのぼった。
 ローマでは、磔(はりつけ)刑も盛んだった。考古学的・歴史的資料に基づく法医学的研究論文によると、裂傷は骨格筋にまで達し、血を流して痙攣する細い筋肉の束が剥き出しになった。その後は重さ45kgほどの十字架に括りつけられ、手首に釘を打ちこまれ、両足は支柱の釘づけにされて磔にされる。

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)では残虐性が是認されていたが、新約聖書(キリスト教聖書)でもそれは同様だった。初期のキリスト教が残虐性を是認したことにより、その後にヨーロッパで千年以上にわたって行われる組織的な拷問の先例をつくることになった。キリストを救世主として受け入れなければ地獄に落ちると心の底から信じていれば、その真理を認めさせるまで相手を拷問するのは相手にとっての最大の幸福になるという確信が彼らにはあった。

1-3.近代初期のヨーロッパにみる残虐さ

 残虐さがみられるのは、聖書だけではない。1800年代に入って書かれた作品にもその片鱗をみることができる。1812年と1815年、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は民話を集めた「グリム童話集」の第一巻と第二巻を発売した。現在の子ども向けにアレンジしたアニメなどでは描かれていないが、オリジナルのグリム童話はカニバリズム(人食い)、性的虐待、四肢の切断などを含む残虐な内容が多く含まれていた。「ヘンゼルとグレーテル」では魔女がかまどで焼かれ、「シンデレラ」では意地悪な異母姉が目をくり抜かれ、「白雪姫」では真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて命を落とすまで踊らされた。

1-4.20世紀のアメリカにみる暴力の文化

 数十年前まで、(アメリカでは)自分を侮辱した相手に拳を振り上げることはその人間が立派な人格を持つことの証だった。ところが今日、それは粗暴であると捉えられ、怒りのコントロールセラピーへの参加資格ありとみなされるようになった。
 これを象徴するエピソードがある。1950年、当時のアメリカ合衆国の大統領であるハリー・トルーマンの娘であるマーガレットは歌手の卵だった。彼女のデビュー公演が終わると、彼女をこき下ろす批評がワシントンポストに載った。トルーマンはその批評者宛てに手紙を送り、「新しい鼻と、目に当てる生の牛肉(※目の周りにできるアザを治療するため)、それに下半身用のサポーターをご用意ください。」と伝えた。当時、このトルーマンの行動は父性的な騎士道精神の持ち主として尊敬された。現在であれば批評家に暴行を加えると公然と脅すことは無教養で粗野なこと非難され、ましてや権力者であれば辞職に値しうる行動である。

 この時代の暴力の文化は、権力者だけでなく一般社会にも広く浸透していた。1953年に雑誌やコミック誌に掲載されていた以下の漫画仕立ての広告は、その典型例である。

(出典:Charles Atlas(海外サイト))

 やせた男性がガールフレンドと浜辺でデート中、難癖をつけてきた男に殴られる。落ち込んで家で荒れていた彼は10セント切手に望みを託し、ボディ・ビルのプログラムの教習本を手に入れる。その後、見事なボディになった彼は浜辺で相手に仕返しし、ガールフレンドとの関係を修復させる。
 今日のスポーツジムやエクササイズ関連の広告には、拳骨の一撃が男性の名誉を回復するなどというメッセージは見当たらない。今や筋肉は力強さではなく、美しさとして称賛されるべきものとなっている。

1-5.現代人と暴力

 現在、もしかすると多く人は今の時代が極めて危険なものであると考えているかもしれない。テロ攻撃や大量破壊兵器の使用の危険性など、不安は尽きない。しかし一方で、数十年前まで日常の中で当たり前のようにあった身近な暴力が少しずつ消え去っていることについてはあまり気づいていない。(奇しくも、日本でもまさに今現在、テレビアニメのキャラクターであるアンパンマンがバイキンマンに「アンパンチ」をする描写に異を唱える者も現れ、ひとつの「暴力」が消えるかどうかの節目にある。)

 「暴力の人類史」の第1章「異国」では、暴力がはびこる過去がまさに異国と呼ぶにふさわしい時代・場所であることを示している。第2章では、1960年代、70年代が今の時代よりもはるかに残酷で脅威に満ちていたことを具体的な数字を用いた説明がなされる。

2.「平和化のプロセス」とは

(随時更新予定)

◆参考文献
暴力の人類史 上
Charles Atlas

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