「ストレスが、身体に悪影響を及ぼす―――」
これは、多くの人が直感的に理解できるひとつの定説である。いわば、“一般常識”である。とはいえ、今となっては一般常識ともいえるこの認識は、医学の歴史全体からみると極めて浅い歴史しか持たない。
英語で緊張や不安、ストレスを意味する単語は“tension”であり、これに対して高血圧を意味する単語は“hypertension”である。それぞれの単語を比較すると、ストレス(tension)が高血圧(hypertension)と一定の関係性にあると容易に想像できるが、少なくとも1960年代までは、どのようなストレスであってもそれが身体に悪影響を与えるとは考えられていなかった。医学(医療)の世界で「ストレスが原因で身体に悪影響(例:高血圧)が現れている」と診断しようものなら、それは異端(=誤った認識・考え)として扱われていた。
いつの時代であれ、その当時の最新の医学では“常識”であり“適切”であると信じられていた考え方や治療法が、時代が進むにつれて“非常識”なものであったと見直されることは少なくない。
【目次】
1.ストレスに関して、最新の研究でわかっていること
2.アメリカでの大規模調査
3.ストレスとの付き合い方
1.ストレスに関して、最新の研究でわかっていること
上述した「ストレスが身体に悪影響を及ぼす」という考えは、最新の研究によれば「半分正解で、半分不正解」と考えられている。
ストレスに関する新しい見解を発信している研究者のひとりが、健康心理学者のケリー・マクゴニガル(Kelly McGonigal)氏である。ケリー・マクゴニガル氏はボストン大学で心理学とマスコミュニケーションの学士号を取得した後、スタンフォード大学でヒューマニスティック医学を研究し、健康心理学の博士を取得した。現在は、スタンフォード大学で講師をつとめている。日本でも、氏の著書のひとつである「スタンフォードのストレスを力に変える教科書」は書店で目にすることができる。
ケリー・マクゴニガル氏は、健康心理学者として人々を健康で幸せにいられるようにすることこそが自らの責務であると考えるが、氏が自身のキャリアの10年近く、人々の健康を改善どころか、害してしまっていたのではないかと述べている。
氏は、「ストレスは病気の原因になる」と何年間にもわたって主張し続けてきた。ストレスは、風邪から心血管疾患に至るまで、あらゆる病気のリスクを高めるというのが主張の核心であった。しかし研究を通じて、その考えは根本的に覆されることになった。
2.アメリカでの大規模調査
アメリカで、3万人の成人の動向を8年間にわたって追跡調査した研究がある。この研究では、「去年、どれくらいストレスを感じたか」「ストレスは健康を害すると思うか」と尋ね、その後、公開されている死亡記録を使って、参加者の誰が亡くなったかを調査した。
その結果、前年に悪いストレスを経験した人たちは、死亡リスクが43%高かった。しかし、このことは「ストレスは健康を害する」と信じている人たちにだけ当てはまることであった。
悪いストレスを経験しても、ストレスが無害だと考える人たちの死亡リスクは、高まるどころか、ストレスがほとんどなかったグループと比較しても最も低いものだった。研究者は死亡者数を8年にわたって追跡し、18万2千人のアメリカ人が「ストレス」からではなく、「ストレスが身体に悪い」と信じていたことによって死期を早めたと結論付けた。8年で18万2千人という死者数は、1年で換算すると2万人超という数値である。この推定が正しければ、アメリカではストレスが身体に悪いと信じることが、死因の第15位ということになる。
【アメリカでの年間死亡者の死因(2012)】
1.心臓病:596,339人
2.がん:575,313人
3.呼吸器疾患:143,382人
4.脳血管疾患:128,931人
5.事故:122,777人
6.アルツハイマー病:84,691人
7.糖尿病:73,282人
8.インフルエンザ:53,667人
9.腎炎:45,731人
10.自殺:38,285人
11.敗血症:35,539人
12.肝疾患:33,539人
13.高血圧:27,477人
14.パーキンソン病:23,107人
15.肺炎:18,090人
「ストレスは健康を害する」と信じて亡くなった数:20,231人
年間2万人超という数字は、皮膚がんやHIV/AIDS、殺人よりも多くの人の命を奪っていることになる。
3.ストレスとの付き合い方
ケリー・マクゴニガル氏は、これまでに多くの機会でストレスは健康に良くないと主張してきた。しかし同時に、氏はこれらの研究を通じて、「ストレスに対する考え方を変えることで、より健康になれるのか」という疑問に対して「Yes」と科学は答えていると述べている。ストレスに対する考え方を変えることで、ストレスに対する身体の反応を変えることができるというのが、最新の研究結果である。
ストレスは、心臓を高鳴らせ、呼吸を速め、発汗させる。一般的に、これらの身体的変化はプレッシャーに対応できていないときの兆候か、もしくは不安感の現れであると考えられている。
ハーバード大学の研究では、「ストレスは身体に活力を与え、さまざまな挑戦や取り組みのための準備である」と考えるよう実験の参加者に伝えた。すなわち、ストレス反応を、有用なものとして考え直すように伝えられた。たとえば、高鳴る鼓動は行動に備えた準備であり、呼吸が速くなっても問題ではなく、脳によって多くの酸素を送り込まれていると伝え得られた。こうしてストレス反応が能力を発揮できるように助けていると捉えるようになった参加者は、ストレスや不安が少なくなり、自信を持てるようになった。その結果、どのような変化がみられたか。
驚くべき点は、ストレスに対する身体的反応が変わった点である。通常であれば、ストレス反応では心拍数が増え、血管は収縮する。
こうした「血管の収縮」が、慢性のストレスと心臓病が関連付けられる理由のひとつである。血管が常に収縮した状態であると、健康に悪影響が及ぶ。この点、実験の中で参加者がストレス反応を有用なものと考えられるようになると、血管は収縮せず、リラックスしたままだった。
ストレス反応が有用なものであるという認識を持っているいる場合、心臓が高鳴っても、心血管がこの状態であれば健康的な状態が維持される。血管のこうした状態は、喜びや勇気を感じるときの状態に類似している。
ケリー・マクゴニガル氏は、ストレスの多い人生でこの生理学的な変化こそが、50歳でストレス性の心臓発作を起こす人と、90歳でも健康でいられる人との違いを生むのかもしれないと考えている。
これらの研究結果は、ストレスへの考え方次第で健康が左右されるという、ストレスに関する新しい科学的発見である。この意味で、ストレスは取り除くものではなく、上手に付き合っていくべきものであるといえる。