コラム

母国語が異なれば思考も異なる。
日米中韓4ヶ国語の比較にみる「言語と思考の脳科学」

 言語は、ヒトが思考を行うために不可欠な要素となっている。ヒトの判断や認識は、多くの場合に言語に基づく。ここでは、言語がどのような形で思考に用いられ、どのような形で判断や認識に影響を与えるのかについてみる。

【目次】
1-1.言語に基づく「数の認識」
1-2.言語の違いによる「数の認識」の違い
2-1.言語の違いによる「思考」の違い
 ■英語の場合
 ■中国語の場合
 ■韓国語の場合
3.日本語の特殊性

1-1.言語に基づく「数の認識」

 ヒトが「数」を数える場合、言語を用いて数える。たとえば、日本語であれば「いち、に、さん、し」、英語であれば「one two three four」などの数え方がある。言語を持たない生物でも、数の“大小”を判断できる場合があることが実験によって確認されている。カラスであれば、2個~8個の範囲で数の大小の判断が可能となっている。これを確認するために行われた実験では、カラスは5個と6個の組み合わせ以外で平均して約70%~90%の確率で数の大きい方を判断する結果がみられた。また、小型淡水魚のカダヤシは、異なるグループを構成する個数の比率が「1:2」(例えば5個と10個)、もしくは「2:3」(例えば30個と45個)の違いであれば、50%以上の確率で大小の違いを区別できることが確認されている。(※ただし、個数の比率が「3:4」(例えば6個と8個)の場合は、違いを判断できる様子は確認されなかった。)

 なお、このような生物による“大小の理解”は、「どちらが多いか」、「どちらが少ないか」といった相対的な大小の判断に留まり、それぞれの個数を正確に把握できているわけではない。
 この点、一般的なヒト(成人)であれば、「どちらが多いか」、「どちらが少ないか」といった相対的な大小の判断だけでなく、「どちらが“いくつ”多いか(少ないか)」といった具体的な判断が可能となる。ヒトがこうした判断を可能とするのは、言語を用いて数を数えることができるためである。

 ヒトは、言語を用いることで数を数えることができる。これは言い換えれば、「ヒトであっても、“数を把握できる言語”を用いなければ、数を把握できない」ことを示唆している。これを確認するために、ある実験が行われた。
 南米のアマゾンに生息するピラハ族が用いる言語には、数を把握する言葉には「1」と「2」と「多い」しかない。そのため、3以上の個数は全て「多い」と表現される。
 ある研究者は、3以上の個数を把握する言語を持たないピラハ族がどの程度の範囲まで数を把握することができるかを調べるため、ピラハ族に対して「数マッチング課題」と呼ばれる実験を行った。この実験では、机に棒を並べ、対面したピラハ族に机の上の棒と同じ数の物(この実験では電池)を並べるよう指示した。その結果、机に並べられた棒の数が1~3本の場合は、ほぼ100%の正解率だったが、棒が10本になると正解率は0%だった。
 この結果から、ヒトは“数を表す言語”を用いなければ、正確な数を把握することができないことが分かる。

1-2.言語の違いによる「数の認識」の違い

 ヒトは数を表す言語を用いない場合、正確な数を把握することができない。それゆえ、言語が「数を表す言葉」を持たない場合は、足し算や引き算、掛け算や割り算などの計算が行えず、思考力に一定の影響が及ぶ。
 数を表す言葉の“有無”によって思考力に一定の違いがみられるだけでなく、数を表す言葉の“違い”によっても思考力に違いがみられることが分かっている。

 日本語や中国語では、10に1を加えた数字は「十一(じゅう・いち/シー・イー)」、10に2を加えた数字は「十二(じゅう・に/シー・アー)」と表記される。これに対して英語では、10(ten)に1(one)を加えた数字は「eleven」、10に2(two)を加えた数字は「twelve」と表記される。また、フランス語では10(dix)に1(un)を加えた数字は「onze」、2(due)を加えた数字は「douze」と表記される。
 そのため、日本語や中国語で思考する幼児は「十一」が「十」と「一」の合計であると素早く認識できるのに対して、英語で思考する幼児は「eleven(=11)」が「ten(=10)」と「one(=1)」の合計であることを認識しづらくなっている。同様に、フランス語で思考する幼児は「onze(=11)」が「dix(=10)」と「un(=1)」の合計であることを認識しづらくなっている。こうした「数を表す言葉の“違い”」は、それぞれの言語を用いて行う思考力(=計算力)に影響を与えることになる。とある実験において、中国語が母国語の5歳児は「8+7」を「8+(2+5)」として理解して計算したが、英語が母国語の5歳児の場合にはこうした考え方をした子どもは一人もいなかったことが報告されている。
 このことから、数を表す言葉の違いにより、それに基づく思考力(=計算力)も異なることが分かる。

2-1.言語の違いによる「思考」の違い

 言語が異なれば、その言語に基づく思考にも違いが現れる。「11」や「12」を表す言語の違いによってそれらを“10+α”として捉えられる(捉えやすい)か否に影響が及ぶため、用いる言語によって計算能力(=思考力)は異なる。また、数字を表す言葉の違いによって思考に影響がみられるのと同様に、数字以外の事柄を表す言葉や文法構造の違いによっても思考に影響がみられることが分かっている。

 以下では、言語(文法構造・表記方法)の違いがヒトの思考や認識にどのような影響を与えるかについて、英語・中国語・韓国語(朝鮮語)と日本語を比較してみていく。

■英語の場合

 英語と日本語の(文法構造の)大きな違いの一つとして、文中で主語と動詞に置かれる重きの違いが挙げられる。

◆日本語
例:「今度、結婚することになりました。」
⇒“結婚する”という動詞に重きが置かれている。※主語は明確にされてない。

◆英語
例:「We are getting married.(私たちは結婚します。)」
⇒“We”という主語に重きが置かれている。※主語が明確にされている。

◆日本語
例:「先日、カナダに行ってきました。」
⇒“行ってきた”という動詞に重きが置かれている。※主語は明確にされていない。

◆英語
例:「The other day, I went to Canada.(先日、私はカナダへ行ってきました。)」
⇒“I”という主語に重きが置かれている。※主語が明確にされている。

 このように、英語では“誰が”という「行動の“主体”」に重きが置かれるのに対して、日本語では“何をしたか”という「主体の“行動”」に重きが置かれる。そのため、日本語では文中で行動の主体が明示されない場合が少なくない。こうした日本語の特徴は、日常会話だけでなく文学、俳句、キャッチコピーなどの分野でもみられる。

・文学での比較

 ノーベル文学賞を受賞した小説家である川端康成の「雪国」の書き出し部分をみると、原文(日本語)では

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

となっている。これに対して英語訳では

The train came out of the long tunnel into the snow country.
(英訳:エドワード・ジョージ・サイデンステッカー※)
※「雪国」の英訳版である「Snow Country」を出版した翻訳家

となっている。

 この英語訳を日本語に訳すと「電車は長いトンネルを出て、雪国へと入った。」となり、主語に重きが置かれている(=主語が文中の主役を果たしている)ことが分かる。
 英語で文を作成する際には主語(主題・主役)を設定せざるをえないため、ここでは「train(電車)」が主語として設定されている。もっとも、「雪国」の原文(日本語)で描かれているのは「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という“(人が登場しない)情景”であり、電車の行動ではない。そのため、主語に重きを置く(=主語を置かざるを得ない)英語では、原文(日本語)が伝える情景を伝えきれていない。

・俳句での比較

 次に、俳句についてみる。俳諧師の松尾芭蕉が詠んだ俳句をみると、

古池や蛙飛びこむ水の音

という句は、英語では

The quiet pond A frog leaps in, The sound of the water.
(英訳:エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)

と訳されている。

 この英語訳を日本語に訳すと「静かな池、一匹の蛙が水の音へ飛び込んだ。」となり、ここでも主語に重きが置かれていることが分かる。この訳では水の音に飛び込む「蛙」が主語(=主役)とされているが、原文(日本語)で重きが置かれて描かれているのは“蛙が飛び込んだ音が響き渡る情景”であり、蛙の行動ではない。川端康成の「雪国」と同様に、ここでも英語は原文通りの情景を伝えきれていない。

・キャッチコピーでの比較

 小説や俳句だけでなく、キャッチコピーの分野においても、英語と日本語における文法構造の違いがみられる。以下は、コピーライターの尾形真理子によるキャッチコピーである。

試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。

 この文章では、思い出す主体が誰であるか、または思い出される客体が誰であるかについては明示されていない。もっとも、多くの場合に読み手はこの文意を明確に理解することができる。

 この文では、思い出す主体が「私」なのか「あなた」なのか「女性全般」なのかが明示されていない。文意を考えれば「私」、「あなた」、「女性全般」のいずれも当てはまるが、必ずしもそれらを明確にする必要性がないために主語がなくとも文として成り立っている。すなわち、主語が明示されずとも文意(情景)が明確に読み手に伝わる文となっている。
 この文の真意は“思い出すという行動が、恋をしている証である”という情景を伝える点にあるため、“誰が”や“誰を”といった主体や客体を明示する必要性は低くなっている。

 これに対して、英語では“誰が”や “誰を”を用いずに(=明確にしなければ)文を作ることができないため、英訳の際には主語(I/you/lady)や目的語(you/someone)を設定せざるを得ない。

「In fitting room, If I think of you, I think I am seriously in love with you.」
(試着室で、もしも私があなたを思い出したら、私は、私が本当にあなたに恋をしているのだと思う。)

「In fitting room, If you think of “someone”, It means you are seriously in love with him.」
(試着室で、もしもあなたが“誰か”を思い出したら、それは、あなたが彼に本当に恋をしていることを意味している。)

「In fitting room, If lady thinks of “someone”, I think it is true love.」
(試着室で、もしも女性が“誰か”を思い出したら、私は、それは本当の恋だと思う。)

 原文(日本語)の場合、“誰が誰を思い出すのか”は重視されず、“試着室で服を着る際に、特定の相手を思い浮かべることが、本気の恋の証なのだ”という点を伝えている。この文では“想いこそが恋の証”という情景を描いているのであり、その情景の中では具体的な登場人物は必要とされていない。
 これに対して英語では、“誰が”という主語だけでなく、“誰を”という目的語まで明確にする必要があるため、文中で行動の主体と客体が明確にされ、読み手の意識が必然的に行動の主体と客体へ向かうことになる。それゆえ、読み手にとって情景や風情の存在感は薄れることになる。

▼言語体系の違いと思考・文化の違い

 小説、俳句、キャッチコピーのいずれも、情景を伝えるべく主語を用いずに(日本語で)書かれたものであれば、英訳する際に主語(train《電車》やflog《蛙》、I《私》、you《あなた》、lady《女性》など)を設定せざるを得ないために、原文(日本語)本来の意図が伝わらなくなる。
 こうした英語の特性は、英語を母国語とする人々の思考にも影響を与えることになる。そして、言語に影響を受けた思考によって形成される社会における文化も同様に、影響を受けることになる。

 英語では文中での対象物同士の関係を明確に区別する(=“行動する主体”と“行動を受ける客体”を区別する)性質上、“二項対立”の概念が生じやすい。この二項対立の概念は、文化面でも特徴として現れている。たとえば、英語圏の宗教観では神と人を明確に対立関係に置くことで一神教の考えが確立され、浸透している。また、人間関係の中では自身と他者を明確に区別することから、いわゆる個人主義思考が強くなる傾向がある。
 英語が対象物同士の関係を明確に区別する性質を持つのに対して、日本語は対象物同士の関係を明確に区別する性質を持たず、主語となる“主役”や“主題”、“主格”が不明確のまま文が成り立つ特徴を持つ。こうした日本語の特徴は、たとえば宗教観では“あらゆるものに神が宿る”とする「八百万の神」といった考え方(=神と人を厳密に区別することのない多神教の考え)にもみられる。また、対象物同士の関係を明確に区別する性質を持たないことから、人間関係の中では和や協調を重んじる傾向が文化としてみられる。
 このように、言語体系(文法構造)の違いによって、ヒトの思考やヒトによって形成される社会・文化にも違いが生じることになる。

■中国語の場合

 中国語(漢語)の文法の特徴としては、文法の規則が英語や日本語ほど厳密に適用されないという点が挙げられる。

・中国語文法の“原則”と“例外”

 中国語の平叙文(=疑問文や命令文ではない、物事をありのままに述べる文)は、原則的には英語と同様に「動詞+賓語(目的語)」で表される。例えば、「○○を食べる」であれば、「吃+○○」となる。

◆米を食べる。
⇒吃大米

◆朝食を食べる。
⇒吃早饭

 文法の規則が英語や日本語ほど厳密ではない中国語の特徴の一つとして、“文の意味が、原則的な文法の規則に合っていない場合が多い”という点を挙げることができる。たとえば、上述した「吃+○○」が、“~を食べる”の意味にならないこともある。

◆大碗で(ご飯を)食べる。
⇒吃大碗

◆食堂で食べる。
⇒吃食堂

 上記の“吃大碗”や“吃食堂”は「動詞+目的語」という構造で、“大碗”や“食堂”は“吃(食べる)”の目的語となる。もっとも、原則的な文法の規則を考えると本来の意味は「大碗を食べる」、「食堂を食べる」になるはずが、実際には「大碗で食べる」、「食堂で食べる」となっている。
 同様の例として、「“写信” ⇒ 手紙を書く」、「“写文章” ⇒ 文章を書く」との意味になるのに対して、「“写毛笔” ⇒ 毛筆で書く」となり、本来の「○○を書く」の意味が例外的に「○○で書く」との意味で解釈しなければならない場合もある。

 なお、こうした「~をする/~でする」という例外とは別の例外もある。例えば、「“救人命” ⇒ 人命を救う」、「“救民” ⇒ 民を救う」との意味になるのに対して、「“救火” ⇒ 消火する(火の中から人や物を救う)」となる場合や、「“养狗” ⇒ 犬を飼う(養う)」、「“养猫” ⇒ 养猫 猫を飼う(養う)」との意味になるのに対して、「“养病” ⇒ 療養する/養生する」となる場合もある。
これらの例では、「動詞+目的語」の構造によって“~をする”という意味は守られながらも、動詞の意味が正反対(“火を救う”と書いて「消化」の意味、“病を養う”とかいて「療養」の意味)になっている。

 このように、中国語では「動詞+目的語」という構造によって作られた文章でありながら、本来の文法規則に反した意味を持つ表現が多くみられる。すなわち、実際の意味と使用されている文法形式には矛盾がみられる場合が多くある。

・矛盾や例外が生じる原因

 こうした矛盾は、中国語の表現が意思の伝達を重視しており、それゆえ文法の形式に捉われない文化があるために生まれた言語現象であるといわれている。
中国語が意味の伝達を重視し、文法の形式に捉われないとする文化は、古代の詩歌である「絶句」などにおいてもみられる。「絶句」は六朝時代(222年~589年)頃に発生し、唐代(618年~907年)頃に文化として浸透するようになった。1句が5文字で構成され、全4句からなる「五言絶句」や、1句が7文字で構成され、全4句からなる「七言絶句」などがあり、それぞれが起承転結の構成を持つ。
 「五言絶句」で有名なものとして、孟浩然の「春暁」が挙げられる。

◆孟浩然:「春暁」
【原文(白文)】
春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

【書き下し文(歴史的仮名遣い)】
春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少

【現代語訳】
春の眠りは心地よく、朝が来たことに気づかない。
所々で鳥が啼くのが聞こえる。
昨夜は風雨の音がしていた。
どれくらいの花がどれくらい散ってしまったのか。

 「絶句」では韻律の調和を持たせるために、詩句の語順の自由度が高くなっている。それゆえ、意味は読者の理解に任せており、解釈が多様なものとなっている。
 日本語では俳句のような短文でも文中に「を」や「に」などの助詞を含めることができるが、中国語の絶句では1句が5文字で構成されるという性質上、接続助詞に当たる「介詞」を含めにくい。そのため、「食堂で食べる」という意味を持った文を作成する際、本来は「我在食堂吃饭(私は食堂で食事をします。)」とするところを、正しい文法規則を逸脱して「吃食堂」と表示し、それを“食堂で食べる”という意味で読ませるといった傾向が強くなる。

 なお、“文法規則からの逸脱”だけでなく、文法の構造上、多様な解釈が可能となる点も中国語の特徴として挙げることができる。たとえば、「春暁」の第一句である“春眠不覚暁”をみると、以下のように多様な解釈が可能となっている。

◆“春眠不覚暁”の現代語訳
訳例1:春の夜の眠りは心地よく、朝が来たのにも気づかなかった。
訳例2:春の眠りは心地がよく、夜が明けたのにも気づかないほど。
訳例3:春の心地よい眠りのため、明け方が来たのが分からない。
訳例4:春の朝の心地よい眠りに、夜が明けたのも気付かずにいる。

 中国語には日本語や英語とは異なり「時制」の概念がないため、動作の時間的位置を表す過去形・現在形・未来形がない。そのため、上記の絶句の例文の訳例のように「朝が来たことに“気付かない(現在形)/気付かなかった(現在完了形)/気付かずにいる(現在進行形)”」の判断ができない。こうした意味の「確定不可能性」は、過去や未来を想像する抽象的思考の発達に影響を与えるといえる。

 先述したように、日本語の文では主語が明示されない場合が多くみられる。そしてその点が、日本人の思考や文化に影響を与えている要因となっている。同様に、中国語の文が文法規則を逸脱して意味を読ませる場合が多くみられることから、こうした点が中国人の思考や文化に影響を与えている要因となっている。
 このような中国語の性質から、中国語は論理性を欠く言語であるとの指摘もなされている。中国の教育心理学専門家の羅新安は、中国国内のノーベル科学技術賞受賞者が1人も出ていない理由として、母語である中国語が上記のように論理的ではないからとの見解を示している。

■韓国語の場合

 韓国語の特徴は、表音文字(=意味を持たず、音のみを表す文字)であるハングルを用いる点にある。

・表音文字の弊害

 韓国では元来、漢字とハングル文字を併用する言語文化であった。しかし1948年、全ての公用文を原則として表音文字であるハングルのみを用いて表記することを定めた法律が制定された。また、1968年の4月からは学校教育での漢字廃止・ハングル専用政策がとられるようになった。こうした法律や政策の制定・施行以来、韓国では次第に十分な漢字教育が行われなくなり、新聞、雑誌などの各種書物から漢字が姿を消すようになった。

 韓国語では、表意文字(=特定の意味を持つ文字【例:“和”⇒調和・平和・均衡の意味を持つ文字】)である漢字を用いずにハングル文字を用いることから、同じ読み方(=音)でありながら意味が異なる“同音異義語”の判断が不可能となっている。

◆韓国語での主な同音異義語
連覇(연패)と連敗(연패)
放火(방화)と防火(방화)
無力(무력)と武力(무력)
素数(소수)と少数(소수)
主義(주의)と注意(주의)
市場(시장)と市長(시장)
戦死(전사)と戦士(전사)
首相(수상)と受賞(수상)
対局(대국)と大国(대국)
諸国(제국)と帝国(제국)

 こうしたハングル表記の性質から、文意の読み違いが生じやすくなる。

◆同音異義語が用いられた文
【例1】
「応援しているチームが連覇した。」
⇒응원하고 있는 팀이 연패했다.

「応援しているチームが連敗した。」
⇒응원하고 있는 팀이 연패했다.(※上の文と同一の表記)

【例2】
「彼の目的は、放火することだ。」
⇒그의 목적은, 방화하는 것이다.

「彼の目的は、防火することだ。」
⇒그의 목적은, 방화하는 것이다.(※上の文と同一の表記)

【例3】
「昨日、停電した。」
⇒어제, 정전했다.

「昨日、停戦した。」
⇒어제, 정전했다.(※上の文と同一の表記)

 韓国語では表意文字を持たないことから、文意は前後の文脈で判断せざるを得なくなる。もっとも、その際に書き手と読み手の認識の違いが生じる可能性がある。上記の例のように「連覇/連敗」、「放火/防火」などの反対の意味を持つ言葉の場合、意味を取り違うと大きな誤解が生じる反面、文脈から推測することは必ずしも困難ではないが、明確に反対の意味を持たない同音異義語であれば、その解釈がより困難なものとなる。
 たとえば、韓国語では電気・電機・戦記・戦機・戦旗・疝気・前期・全期・転機・伝記・転記の全てが“전기”と表記・発音される。これによってどのような弊害が生じるかについては、全ての言葉を「ひらがな」に置き換えて例えると理解することができる。

【例】
「だいにじせかいたいせんちゅう の せんき を おもいだす。」

 この場合、文中の“せんき”(전기)の意味する内容が戦旗なのか戦記なのか(もしくは伝記なのか転機なのか疝気なのか)を判別することが不可能となっている。韓国語では意味を持つ文字(表意文字)を用いていないために、文意を正確に判断するための客観的な根拠が存在しない。それゆえ、確信のないまま文章を読み進めざるを得なくなる。

 ハングルのような表音文字で書かれている文では、辞書を用いても正確な文意が把握できない場合がある。たとえば、表音文字であるハングルで書かれる「あのかいとうはまちがってなかった。」という文(※ここでは便宜上、ハングルをひらがなに置き換えて例えている。)について、“かいとう”の意味を調べるために辞書を引くと、以下のように記されている。

(※表音文字であるハングルをひらがなで置き換えて例えた場合)
かいとう:しつもんやようきゅうなどにこたえること。そのこたえ。
かいとう:もんだいをといてこたえをだすこと。そのこたえ。
かいとう:とうけつしているものがとけること。とかすこと。
かいとう:せいとうやとうはなどをかいさんすること。
かいとう:ぶどうとうがぴるびんさんにまでぶんかいされること。
かいとう:やきゅうでとうしゅがむねのすくようなとうきゅうをすること。
かいとう:よくきれるかたな。
かいとう:しょうたいふめいでてぐちがこうみょうなとうぞく
かいとう:かいやだんたいをしゅさいしだいひょうするひと。
かいとう:しゅじゅつのためずがいをきりひらくこと

 意味を持たない表音文字によって記される言葉は、その意味が不明な場合、多くの同音異義語の中からどれに該当するかを推測しなければならない。もっとも、「あのかいとうはまちがってなかった。」という文だけでは、“かいとう”が何を意味するかを確定させることは不可能となる。

 表音文字では辞書を引くことで必ずしも言葉の意味(文の意味)を確定させることができるわけではない。これに対して、文字そのものが意味を持つ表意文字であれば、辞書を引くことで意味を確定させることが可能となる。この点、日本語では特定の意味を持つ表意文字を用いているため、辞書を引くことで文の意味を明確にすることができる。たとえば、表意文字である日本語で書かれる「あの回答は間違っていなかった。」という文について、“かいとう”の意味を調べるために辞書を引くと、以下のように記されている。

◆“かいとう”の意味
回答:質問や要求などに答えること。その答え。
解答:問題を解いて答えを出すこと。その答え。
解凍:凍結しているものが解けること。解かすこと。
解党:政党や党派などを解散すること。
解糖:ブドウ糖がピルビン酸にまで分解されること。
快投:野球で投手が胸のすくような投球をすること。
快刀:よく切れる刀。
怪盗:正体不明で手口が巧妙な盗賊。
会頭:会や団体を主宰し代表する人。
開頭:手術のため頭蓋を切り開くこと。

(参照:コトバンク【https://kotobank.jp/】)

 上記の情報から「あの回答は間違っていなかった。」という文の意味を確定させることが可能となる。それゆえ、文意の読み違いは生じない。

 表意文字で文が書かれている場合、同じ読み方(=音)であっても文字の意味が異なっていれば辞書を引くことで意味を確定させることが可能となる。

◆様々な“かいとう”
例:あの回答は間違ってなかった。
例:あの解答は間違ってなかった。
例:あの解党は間違ってなかった。
例:あの怪盗は間違ってなかった。
例:あの会頭は間違ってなかった。

 上記の場合、「回答/解答/解党/怪盗/会頭」それぞれの意味は辞書を引くことで確定するため、文意の読み違いは生じない。

・表意文字が有する“意味”に基づく想像と推測

 日本語では、それぞれの漢字が意味を持つ「表意文字」を用いるため、初見でもおおよその意味を想像・推測することができる。たとえば、以下の3つの言葉(※造語)がその例として挙げられる。

1.黒刀剣
2.告答権
3.穀糖研

 1.の黒刀剣であれば、この言葉を初めて聞いた場合にも「黒い刀や剣」を表す言葉であることがおおよそ推測できる。また、2.の告答権であれば、「法律に基づく権利に関する用語」であるとの推測が可能である。さらに、3.の穀糖研であれば、「穀物や糖類を研究する施設」であるとの推測が、漢字の意味から可能である。
 これら3つの言葉は造語だが、架空の言葉であるにもかかわらず漢字の表記をみることで意味をおおよそ推測することができる。

 これに対して韓国語では、先述したように単語や文は表音文字であるハングルで示されることから、初見で意味を推測することができない。
 上記の例で挙げた「黒刀剣/告答権/穀糖研」の読み方である“こくとうけん”という言葉をハングルで表記すると、それぞれ「こ:고」、「く:구」、「と:도」、「う:우」、「けん:겐」(※ハングルでは、「ん」を表現する場合は一つ前の音の文字の下に“ㄴ”をつけて表現する。よって、「けん」の場合は「게(け)」の下に「ㄴ(ん)」をつけて「겐(けん)」になる。)となることから、“고구도우겐”と表現される。この「こ」、「く」、「と」、「う」、「け」、「ん」がそれぞれ独立した文字(音)として表されるため、この言葉を初めて見る(聞く)場合、どのようなものであるかを想像することはできない。

 なお、日本語が母国語である場合には、「こくとうけん」という文字列や音は無意識の内に「こく」、「とう」、「けん」に分離されて意味が推測される傾向が強い。これは、日本語では多くの漢字が二文字の読み(=音)となっており、なおかつ「くと」と読む単一の漢字が存在せず、さらには「ん」という音だけを残して「うけ」という読みをする漢字が存在しないためである。このことから、日本語を母国語とする場合に“こくとうけん”という文字列や音に触れると、“けん”という文字や音から、剣・権・研・圏・券・犬・拳・肩などの意味を推測できるが、表音文字であるハングルでは、こうした推測も不可能となっている。すなわち、日本語では表意文字である漢字によって記された単語を見た際に想像力を発揮し、意味を推測することができるのに対して、韓国語では表音文字であるハングルによって記される単語を見た際に、その単語の持つ意味(=語源)を推測することができない。たとえば、日本語では「水素」という言葉から“水の素”を意味する言葉であるとの連想が(初見の場合でも)可能だが、韓国語では「水素」という言葉は「수소(スソ)」という音で表記されるため、この表記だけでは「수소(スソ)」が“水の素”であることが推測できない。こうした要因から、韓国語は想像力や抽象的思考が養われにくい言語といわれている。

・表音文字が社会に与えた影響

 表音文字であるハングルで書かれる文は意味の解釈が多様なものとなり、なおかつ意味を確定させることができない場面が少なくない。それゆえ、韓国語で書かれた文章の“読み手”は、意味の確定できない言葉を読み飛ばす傾向が強くなる。なお、読み飛ばされる傾向が強くなる言葉は主に、日常生活に馴染みのない言葉や、多義語が多い言葉となる。こうして意味の確定できない言葉が読み飛ばされるようになると、文章の“書き手”は言葉を読み飛ばされないように、簡易な表現に置き換えるようになる。日本語で例えると、「壊死(えし)」を“からだのいちぶがしぬ”という表記に置き換え、「矜持(きょうじ)」を“じぶんののうりょくをしんじていだくほこり”という表記に置き換えるような配慮がなされる。その結果、次第に専門語や概念語が用いられなくなり、抽象性に乏しい通俗的な文章が社会に蔓延していくことになる。

 韓国では漢字廃止・ハングル専用政策により、概念を用いて抽象度の高い思考を展開する習慣が失われることになった。言語がヒトの思考に影響を与え、その影響が社会を形成することから、こうした「概念を用いて抽象度の高い思考を展開する機会の喪失」は、社会に一定の影響をもたらすことになる。この点に関して、呉善花(※1)は自身の著書「「漢字廃止」で韓国に何が起きたか」の中で、漢字が廃止された後の韓国社会について以下のように述べている。
(※1呉善花:1956年、韓国の済州島生まれ。女子軍隊経験後に東京外国語大学大学院修士課程を修了し、拓殖大学国際学部教授を務める。)

韓国語は漢字を廃止したために、日常的にはあまり使われない、しかし概念や理念を表す言葉、各種の専門用語など、伝統的に漢語で表されてきた重要な言葉の多くが、一般にはしだいに使われなくなっていった。各種の評論・研究論文や新聞・雑誌の記事に、総じて書き言葉の世界に、語彙の恐ろしいまでの貧困化がもたらされたのである。とくに文学の面では、散文でも詩文でも、伝統的にあった豊かな漢字表現の大部分を失ってしまった。
そのため、現在の韓国人が書く文章は一般的に、簡潔、単純、直接的という傾向が強く、言葉の奥行きがきわめて浅い。私にしてもハングルだけで韓国語を書くと、心に思う深さやニュアンスや広がりを、自由かつ十分に表現することができない。もっぱら漢字仮名交じりの日本語でしか、自分のいいたいことをいえなくなっている。
しかし漢字廃止以前の韓国語は、韓国人に独特な感性や情緒、価値観や発想、論理の筋道などを、いまよりも数段豊かに表現することができていた。

高度な精神性と抽象的な事物にかんする語彙、倫理、道徳、哲学、芸術、科学、――いってみれば文明語彙のほとんどが、韓国の一般の人々にはもちろんのこと、かなりのインテリにも正確に理解されないまま、しだいに遠く無縁なものになっていかざるを得ないのである。
いまの韓国語では深遠な哲学や思想の議論はまず成り立たない。

私の知る韓国のご老人のなかには、「韓国語では難しいことは考えられない。考えようとすればどうしても日本語になる」といわれる方が何人もいる。いまや私も完璧にそうなっていて、小説ならば韓国語の方が速く読めるが、専門書は日本語のほうが数段早く読める。
逆に言うと、韓国人の多くが、日常的な肌触りをもった言葉ですべてを論じられると勝手に思っている。日本の朝鮮統治の問題ひとつをとっても、容易に日常的な感性から抜け出た議論をすることができないのもそのためである。私はそれを反日思想教育や伝統的な小中華主義のせいだとばかり思ってきたが、けっしてそれだけではない。

日本人と話していればいるほど、韓国人のものの考え方がいかに単純かつ浅いものかと思い知らされる。とくに若者であるほどそうなのだ。テレビ番組のほとんどは日本の真似、日本で売れ筋のものはすぐにそのまま横流しのように取り入れる。戦後韓国の知的荒廃は消費社会化の波とともにいっそう拍車をかけている。
戦後韓国が歩んできた漢字廃止・ハングル専用の歴史は、そのこととまったく無縁ではない。私は日本を知り、日本語を知り、日本語の漢字の受け入れ方を知って、そのことをはっきり確認できたように思う。

(引用「「漢字廃止」で韓国に何が起きたか」/呉善花)

3.日本語の特殊性

 英語で用いられているアルファベットや韓国語で用いられているハングルは表音文字であり、文字そのものが意味を持つことはない。これに対して中国語や日本語で用いられている漢字は表意文字であり、文字そのものが意味を持つ。なお、中国語と日本語はともに漢字を用いる言語であるが、この2つの言語には大きな違いがある。それは、日本語では表意文字の漢字だけでなく、表音文字のひらがなやカタカナも用いられるという点である。日本語は世界で唯一、表音文字と表意文字の両方を活用する言語体系を有している。日本語では文字そのものに意味を持たせたい場合には漢字を用い、意味を持たせない場合にはひらがなやカタカナを用いることで、多様な表現が可能となる。

 日本語の特殊性としては、これまでに述べてきたように「主語や目的語を明示しない“情景”の表現が可能」である点や、「中国語と比較して、より論理的であり文法規則が明確」である点などが挙げられる。もっとも、こうした日本語の特殊性をもって、日本語が他の言語に対して絶対的な優位性を有していると結論付けることはできない。
 18世紀の世界で、他の国々や地域に先駆けて科学の分野を開拓したのは、表音文字を用いる英語を母国語とするイギリスをはじめとしたヨーロッパ圏であった。英語は文法構造上の理由から主語と目的語を明確にする性質を有し、そうした“二項対立”の概念はヒトと自然を対立させ、ヒトによる自然の支配の道を生み出した。その結果、自然法則の探求と応用が西洋科学を生み出した。近代社会の発生が18世紀のヨーロッパで生じた産業革命に端を発していることを考えると、二項対立の概念を有する西洋言語が社会(=世界)の発展に与えた影響は極めて大きいといえる。これに対して、当時の日本では言語の文法構造上の理由から自然との調和を重んじるあまり、近代科学を発達させることはできなかった。科学の進歩は自然法則の理解とその支配・応用と不可分一体の関係にあるため、ヒトと自然の対立を経ずして科学の進歩は実現されない。それゆえ、自然との調和を図る日本では、科学の発達は西洋と比較して極めて遅いものであった。

 こうした歴史的背景を鑑みると、表音文字・表意文字の双方を活用する唯一の言語である日本語であっても、必ずしも社会(=世界)の発展に関して全面的に先駆けて寄与してきたわけではないことが分かる。同時に、現在の日本社会の発展は、母国語としての日本語と、外国語としての英語の輸入によって成り立ったものであると結論付けることができる。それゆえ、今後の社会の発展もまた、日本語と英語という異なる二つの言語の相互活用によって実現されるものといえる。重要なことは、母国語(または外国語)の特質を過度に称賛もしくは貶めるのではなく、言語が思考やヒトの認識に与える影響を知り、自身や社会にとって利益をもたらすためにどのように言語と向き合っていくかを模索することといえる。

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◆参考文献
・ことばと思考 (岩波新書)
・ことばの力学――応用言語学への招待 (岩波新書)
・ことばの歴史―アリのことばからインターネットのことばまで
・こころと言葉―進化と認知科学のアプローチ(東京大学出版会)
・言語と思考を生む脳 (シリーズ脳科学 3)(東京大学出版会)
・言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか (中公新書)
・言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス)
・言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)
・思考する言語〈上〉―「ことばの意味」から人間性に迫る (NHKブックス)
・思考する言語〈中〉―「ことばの意味」から人間性に迫る (NHKブックス)
・思考する言語〈下〉―「ことばの意味」から人間性に迫る (NHKブックス)
・日本語の科学が世界を変える (筑摩選書)
・日本的精神の可能性―この国は沈んだままでは終わらない! (PHP文庫)
・国家の品格 (新潮新書)
・「漢字廃止」で韓国に何が起きたか(PHP研究所)
・即戦力がつく英文ライティング(DHC)

◆参考サイト
淡水魚カダヤシ、ヒト並に数を認識」(National Geographic)
サルも引き算ができる」(National Geographic)
カラス、数の大小認識「人間同様の思考も」宇都宮大」(日本経済新聞)

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