ヒトは700万年の進化の過程で、知能を獲得した。「ヒトの知能の進化・発達に限界はあるか」という疑問は、多くの人が抱くかもしれない。
19世紀後半に昆虫の神経系の構造を明らかにし、ノーベル生理学・医学賞を受賞したスペインの生物学者カハール(Santiago Ramón Y Cajal)は、昆虫の視覚処理ニューロンの小さな回路を精巧な懐中時計にたとえ、哺乳類の回路を中身が空洞だらけの大きな振り子時計に例えた。
ミツバチの脳はニューロンが比較的少なく、ゾウの脳はミツバチの脳に比べて500万倍大きい。しかし、ゾウの脳はシグナルを身体の端に伝えるのにミツバチの100倍以上の時間がかかる。そのため、ゾウは反射神経を当てにできず、ゆっくりと動いて次の一歩をどう踏み出すかを考えるのに貴重な脳の資源を費やす。(参考:心の迷宮 脳の神秘を探る (別冊日経サイエンス 191)
進化によって脳のニューロンの数が増え、そしてニューロンどうしがより高速に情報交換できるようになることで、上述したようにヒトの知能は今後も進化・発達を続けると考えられるかもしれない。しかし近年の研究結果によると、脳の構造は既に生物的・物理的な限界に近づいているという。この限界は、ニューロンの性質そのものや、ニューロンが情報伝達に利用している化学物質の性質に起因している。
本稿では、そんなヒトの知能の進化・発達の限界についてみていく。
【目次】
1.脳の大きさは、必ずしも知能の高さを示すものではない
2.脳が大きくなると、不都合も生じる
3.知能の高さを決定づけるのは、「ニューロンの数」と「神経活動の速さ」
4.生物学的な限界をもたらす物理的性質
5.知能を高める方法と弊害
6.人類は今後、どう賢くなるべきか
1.脳の大きさは、必ずしも知能の高さを示すものではない
脳の機能を高めるには、サイズを大きくするというのが明白な方法といえる。脳の大型化の利点の1つは、大きな脳ほど多くのニューロンを保有できることにある。とはいえ、知能レベルは脳のサイズだけで決まるわけではない。ウシの脳はマウスの脳よりも100倍以上も大きいが、ウシがマウスよりも賢いわけではない。むしろ、身体が大きくなるにつれて些細な処理が増え、それをこなすために脳が大きくなる。すなわち、身体が大きいほど知能とは無関係な“雑用”が増える。たとえば、身体全体に広がるより多くの触覚神経にエネルギーを割き、より大きい網膜からのシグナルを処理し、より多くの筋繊維を制御する必要が生じる。
知能レベルは、こうした触覚感覚などへの対応に用いられるニューロンを差し引いた後に残るニューロンの量で決まると考えられている。知能と脳のサイズの関係は、少なくとも表面的なものに過ぎないのである。
2.脳が大きくなると、不都合も生じる
脳が大きくなると、脳を構成するニューロンの平均的なサイズが大きくなる傾向がある。脳内のニューロンの総数が増えるにしたがって、ニューロンどうしはより多くの接続を生み出せるようになる。しかし一方で、ニューロンが大きくなったことで大脳皮質内のニューロンの数密度は下がる。また、ニューロン間の距離が大きくなり、それらをつなぐのに必要な軸索が長くなる。この結果、シグナルがニューロン間を移動するのにかかる時間も長くなるので、軸索は高速伝達を維持するため太くなる必要がある。(軸索が太いほどシグナルは速く伝わるため)
研究によると、脳が大きな生物種ほど、脳がより多くの領域に分割されていることが分かっている。たとえば、言語を理解するための領域や、顔を認識するための領域などである。
生物の進化の過程で脳が大きくなると、こうした特殊化が進む。左右の脳半球で対応する領域が、それぞれれ異なる機能を担うようになる。左側が言語認識を担うのに対して、右側は空間認識を担うといったようにである。
こうした特殊化は、脳の大型化に伴って生じる接続の問題を補っている。マウスの脳を、その100倍のニューロンを持つウシの脳に大型化することを試みても、ニューロンの良好な接続状態を保ったままネットワークを急に広げるのは不可能となる。脳はこの問題を解決するために、似たような機能を担うニューロンを集めて高度に相互接続されたモジュールをつくり、モジュールどうしを結ぶことで長距離接続の数をはるかに少なく抑える方法と採用した。なお、上述の「左右の脳半球の特殊化」も同様の問題を解決する。左右の脳半球でそれぞれに役割を果たす専門領域とすることで、左右の半球間で伝達しなければならない情報量が減り、左右の半球どうしをつなぐ長い軸索の数を最小限に抑えることができる。
このように、大きな脳が備えている“左右で異なる”という特徴は、いずれも脳の大型化に伴って生じる接続の問題を解決するための策に過ぎないのである。
ニューロンは脳の大型化に伴って確かに大きくはなるが、従来どおりの良好な接続状態を保ちながら大きくなることはできない。シグナルを伝達する軸索は脳の大型化によって太くはなるが、それによってシグナル伝達の遅れを完全に取り戻せるわけではない。数値でみると、軸索の太さは2倍になってもパルスの速度が40%ほどしか上昇しないが、エネルギー消費は2倍になる。すなわち、軸索は太くなるほどコストパフォーマンスが悪くなる。
脳は大きくなるにつれ、白質(軸索)の体積のほうが灰白質(ニューロンの細胞体)の体積よりも急速に増大する。言い換えれば、脳の体積のより多くの割合が、実際の計算活動をする細胞体ではなく、接続線に割かれるようになる。ここでも、脳が一定の大きさを越えて肥大化するとコストパフォーマンスが悪くなっていくことが分かる。脳の大型化には、生物学上の限界がある。野球ボールほどのサイズの脳を持つウシが、真珠ほどのサイズの脳しか持たないマウスと比べて賢くないのは、こうした理由からである。
3.知能の高さを決定づけるのは、「ニューロンの数」と「神経活動の速さ」
知能に重要なのは、より小さなニューロンが稠密(ちゅうみつ)に詰まっていることである。ドイツにあるブレーメン大学の神経生物学者であるロート(Gerhard Roth)とディッケ(Urusula Dicke)は、さまざまな動物種の知能を調べた。その結果、知能と緊密な相関関係があったのは、皮質のニューロン数と神経活動の速さだけだった。
神経活動の速さはニューロン間の距離が大きくなるにつれて鈍り、軸索のミエリン化(※1)が進んでいるほど速い。
(※1.ミエリン化とは、脂質に富んだ絶縁物質が軸索の表面を覆うことである。これにより、軸索はより速くシグナルを伝えられるようになる。)
霊長類のニューロンは、他の哺乳類と比較して小さいことが分かっている。小さなニューロンには、2つの利点がある。1つは、脳の大型化に応じて皮脂ニューロンの数を大きく増やせるという利点である。もう1つは、ニューロン間の距離が短いので高速コミュニケーションが可能となる点である。ゾウやクジラはそこそこ賢いが、霊長類に比べるとニューロンも脳全体も大きく、非効率になっている。また、ニューロンの数密度は霊長類よりもずっと小さい。つまり、ニューロン間の距離が大きく、神経インパルスの速度が遥かに遅い。
同じ霊長類であるヒトの脳にも、同種の傾向は確認されている。脳領域間の伝達が速い人ほど、聡明であることが調査で分かっている。オランダのユトレヒト大学医療センターのファン・デン・ホイフェル(Martijn P.van den Heuvel)の研究チームは、異なる脳領域を結ぶ経路が短いことがIQの高さに関連していることを突きとめた。また、ケンブリッジ大学の神経科学者であるエドワード・ブルモア(Edward Bullmore)のチームも同様の結果を得ている。実験によると、脳内の伝達経路が最も直接的で、ニューロン間の伝達が最も速かった人の作動記憶が最も優れていた。
4.生物学的な限界をもたらす物理的性質
ニューロン間や脳領域間のコミュニケーションが知能を制限する要因になっているのであれば、ニューロンが小型に進化すれば(=ニューロン間の距離が縮まって伝達が速くなれば)、脳はさらに賢くなると考えられる。また、軸索が太くならずにシグナルをより長い距離にわたってより速く運べるように進化した場合、脳はもっと効率的に働くようになると考えられる。
しかし、ニューロンと軸索は生物学・物理学的な要因によって一定のサイズよりも小さくなることができずにいる。その要因とは、「イオンチャネル」と呼ばれるタンパク質の性質によるものである。
ニューロンは、イオンチャネルを使って電気パルスを発生させている。しかし、このイオンチャネルは本質的に不安定なシステムである。
イオンチャネルは、分子の折りたたみによって開閉する小さなバルブのようなものである。イオンチャネルが開くと、ナトリウムやカリウム、カルシウムのイオンが細胞膜を通過し、ニューロンが情報交換に用いる電気シグナルが作り出される。このイオンチャネルは非常に小さいため、熱振動だけで開閉してしまう場合がある。実験によって1つのイオンチャネルの電圧を調整すると、チャネルは確実に開いたり閉じたりするのではなく、開かないこともあれば開くべきところでないところで開くこともある。すなわち、電圧を変えることによって期待できるのは、“開閉する可能性が変わること”のみである。この不確実性は一見すると不安なものに思えるが、これは進化の過程で生じた生物学的な妥協策である。チャネルの開閉のスイッチを緩くし過ぎるとノイズによって頻繁に切り替わってしまう反面、開閉のスイッチを堅くし過ぎると開閉に大きなエネルギーが必要となってしまう。すなわち、ニューロンはある程度の緩いイオンチャネルを採用することで、ランダムに開閉してしまうことがある反面、エネルギーを節約している。そして、ランダムによる不都合を減らすために多くのチャネルを採用し、ニューロンがインパルスを発生させるかどうかを多数決によって決めている。ただし、ニューロンが小さくなると多数決にも問題が生じる。ニューロンが小さくなるとシグナル伝達を可能にするチャネルの数も少なくなり、結果としてノイズが増えることになる。
5.知能を高める方法と弊害
ヒトの知能がこれ以上の進化・発達を実現するために取りうる選択肢はいくつかあるが、そのいずれもトレードオフ(何かを得ることで何かを失う)関係にある。
①ニューロンを増やして脳を大きくすることで、処理能力を高める。
⇔ニューロンが消費する総エネルギーが増える。また、脳が大きくなると必然的にニューロンどうしをつなぐ軸索が長くなり、これによって処理が遅くなる。
②遠く離れたニューロン間の接続を増やし、脳領域間の伝達を速める。
⇔新たに加わった軸索がエネルギーを消費することで、総エネルギー量が増える。
③軸索を太くすることで、シグナル伝達を速める。
⇔より多くのエネルギーと空間が必要となる。
④ニューロンを小さくする、あるいは軸索を細くする、またはその両方によって同じスペースにより多くのニューロンを詰め込む。
⇔ニューロンや軸索が小さくなりすぎることで、イオンチャネルがランダムに作動しやすくなる。
以上のように、ニューロンの数の増加やサイズの小型化、軸索の延長によって脳の機能は向上する反面、より多くの空間やエネルギーが必要となり、シグナル伝達の安定性も失われうる。脳は生物38億年の歴史とヒトの700万年の歴史の中で、およそ生物学的な限界に到達しているのである。
6.人類は今後、どう賢くなるべきか
生物学的な限界に近づいた人類の脳。人類の進化はここで終わりを迎えるのだろうか。
ヒトの脳に構造的な変化がなくとも、人が生み出す技術は蓄積され、派生して新たな技術を生み出す。(参考:技術の性質)
人類は6000年前に文字文化を生み出し、現在ではIT技術を駆使して知識の蓄積・共有・展開・拡散を可能としている。脳の進化・発達が限界がみえようとも、未だ人類が生み出す技術に限界はみえていない。個人の脳に限界がみえはじめた今こそ、次の世代に知識と技術を遺(のこ)し、人類の集合知として進化・発達させていることが必要であるといえる。