誰にでも、昔を思い返すときがある。小学生の頃の夏休みの記憶、高校生のときに友人たちと無邪気に笑い合った記憶、社会人となって初めて働いたときの緊張の記憶など。
追憶や懐古、すなわちノスタルジーは、ヒトの健全な精神活動のひとつである。意外と知られていないかもしれないが、ノスタルジーには重要な働きがある。気分を高揚させ、自尊心を高め、人間関係を強化する。まさに、心の安らぎの源となる。
ここでは、そんなノスタルジーの心理的効果についてみていく。
「ノスタルジー」の歴史
現在では悪い意味で用いられることが少ないノスタルジー(nostalgia)という言葉は、もともとは医学用語である。1688年、スイスの医師であるヨハネス・ホーファー(Johannes Hofer)が、故郷を離れたスイス人傭兵の罹った原因不明の高熱などの病を指した造語だった。傭兵たちは故国の望郷の念に苛まれ、ヒステリー発作で泣き叫んだり、不安や動悸、食欲減退、不眠といった症状を患った。そんな様子をみて、ホーファーはノスタルジーを病気のひとつであると考えていた。1900年代になると、精神分析家たちは感傷とともに昔を懐かしむ気持ちをメランコリー(憂鬱)の病態のひとつであると解釈した。当時は「移民精神病」と呼ばれることもあり、消し去ることのできない深い悲しみや抑うつが原因となっていると考えられることもあった。歴史の中でノスタルジーは悪い意味合いで用いられることが多く、こうした傾向は1970年代まで続いた。
ノスタルジーの理解に転機が訪れたのは、1979年のことである。アメリカの社会学者であるフレッド・デーヴィス(Fred Davis)は、ノスタルジーという言葉が人に「温かい」「古き良き時代」「子ども時代」といった肯定的な意味の言葉を連想させることに気付いた。その後、2006年になって初めて詳細にノスタルジックな想いについて調査された。
ノスタルジーとは、自己の肯定である
イギリスのサウサンプトン大学のオランダ人心理学者であるティム・ヴィルドシャット(Tim Wildschut)の研究グループの調査の結果、ノスタルジーは自伝的記憶の一形態であることが分かった。ほとんどの人は、ノスタルジックな過去の情景の中で自分自身を主役に据える。多くの場合、救済がテーマであったり克服に至る一連の場面を伴っている。望ましくない経験から始まり、最終的には良い結果に至るという流れである。研究によると、被験者がノスタルジックな記憶を描写するとき、“最初は期待が持てたが最終的に悲惨な結果になった”という物語はほとんど聞かれなかった。
ノスタルジーは、いつ生じるか
調査によると、ノスタルジーの前触れとして最も多かったのは、「憂鬱な気分」「不安な気持ち」「気分がイライラしている」状態であり、回答者の38%を占めた。また、その内の34%は「孤独感」を挙げた。また、実験によっても孤独感を抱いているときや、負の感情に支配されているときには過去の人間関係を懐かしむことが確認されている。
ノスタルジーの心理的効果
心理学者のヴィルドシャットは実験の中で、意図的にノスタルジックな状況を思い出すように被験者に指示した。その後、被験者に「愛されていると感じるか」「守られていると感じるか」「幸福だと思っているか」「悲しいと感じているか」「ふさいだ気分か」などの回答を求めた。その結果、最もノスタルジックな思考をする被験者は“幸福”、“社会との一体感”、“自尊心”の3つの項目で高い数値を示した。
これらの実験結果から、これまでの歴史の中でノスタルジックという「悲観的な精神状態」と考えられていた現象が、実は「楽観的な精神状態」をもたらしているということが分かった。
なお、実験では社会的なスキルとして「人間関係を築くのが上手いか」「自分の感情を他の人に率直に見せるか」「友人の心の支えになることができるか」という3つのテーマを挙げて被験者に自身の社会的能力を評価することも求めた。その結果、ノスタルジックな思考をする被験者ほど、3つのテーマのいずれについてもそうでない被験者よりも優れていた。
この実験はヨーロッパを越えてアジアでも行われた。その結果は、ヨーロッパで行われたものとほぼ同様だった。すなわち、ノスタルジックな記憶を思い出すという行動は、文化的な背景に関係なく精神状態を高めることができることが分かった。
また、アメリカのノースダコタ州立大学の心理学者であるクレイ・ラウトリッジ(Clay Routledge)とサウサンプトン大学の研究グループによると、ノスタルジーは過去や現在の哀しみや孤独感から立ち直るのに役立つだけでなく、未来に起こる不幸に対する免疫や抵抗力がつくことも分かっている。
◆参考文献
「別冊日経サイエンス 心の迷宮 脳の神秘を探る」
「トポグラフィの日本近代 江戸泥絵・横浜写真・芸術写真」